un secret ~秘密~ 第10話 written by aoi
「俺のとこに来るって言ってたのに、来ないから心配で類のと、こ……って、どうしたんだ牧野!?」
「お前!何泣いてんだよ」
脱出したら俺の家に集合するはずなのに、類も牧野も司も誰も来ない。
大丈夫なのか?
おまけに誰にも連絡も取れなくて、みんなが無事なのか心配になったあきらは一先ず類のところに向かっていた。
その途中で泣きながら、とぼとぼと俯き歩くつくしを見つけた。
「ここじゃ目立つ、とりあえず車に乗れ」
何も言わず静かにただ涙を流すつくしの肩を抱き、乗ってきた車の後部座席に乗り込むと運転手に小声で行先を告げる。
「牧野着いたぞ、歩けるか?」
いつもだったら車に乗ったらすぐ寝てしまうのに、今回は一言も喋らず呆然と下を向いて大人しく乗っていたつくし。
車が着いたことを告げても反応がない。
「一人で歩けそうになかったら抱いて行くけど……いいか?」
腰を抱き寄せ膝裏に手を差し込む。
そこまでしてやっとつくしがぴくりと身動ぎをした。
「……あ…美作さん。大丈夫……歩けるから」
足元の覚束ないつくしに手を貸しながらエレベーターに乗り込み、最上階から一階下のフロアにある一室に入る。
ここは美作の裏稼業用のシェルターを兼ねたマンションで、あいつらもここの存在は知らない。
お互いの秘密を敢えて探るような安っぽい関係でもない。
幹線道路から奥まった所に建っている低層の高級分譲マンションにみえるが、実は住人は全てうちの裏部隊の連中ばかりだ。
もし北川原の連中がまだ何かを仕掛けてきても、防御も完璧だしすぐに攻勢に転じることも出来る。
ここなら安全だ。
リビングのソファに座らせて頭をぽんぽんと軽く叩いて、あきらはキッチンで紅茶を淹れるべくケトルをコンロにかけてからつくしのところへ戻る。
さて、このお姫様から何があったのかを聞き出さないとな。
「今お茶入れてやるから、それ飲んでちょっと休め。な?」
小さく首が縦に動くのを確認して再度キッチンへ向かう。
落ち着かせるのなら紅茶よりハーブティーの方がいいのかもしれないと思い、カモミールをベースとしたハーブティーを淹れる。
甘いのもいるな。
クッキーを取り出し皿に並べる。
「ほら牧野これ飲んで。熱いから気を付けろよ。あとお袋が焼いたのじゃないけどクッキーがあったから食べろよ」
「いい匂い……ありがと」
つくしは両手でマグカップを包み込むように持つと、立ちのぼる香りを吸い込み少し微笑んだ。
ティーカップではなくマグカップにして正解だったな。
手のひらから伝わる温かさとカモミールの香りがつくしの心を解き解すのに少しは役に立ったようで、あきらも嬉しくなり口角が少し上がる。
「俺の特製ブレンドティーだからしっかり味わえよ?」
「ふふっ、美作さんってホントにまめよね。こういうのもマダムから教えてもらったの?」
「まさか」
マダムは関係ねぇよ。
これはいつもギリギリまで我慢して頑張っているお前に飲ませたくて、いつか飲ませたくて試行錯誤して完成させたんだ。
「牧野、お前は俺を誤解してるぞ、マダムとの火遊びはとっくに止めてる。大学卒業してからだから……もう四年になるか」
「えっ?そうだったの?知らなかった」
約束の四年が経っても司は牧野を迎えには来なかった。
その時から始まったんだ。俺たち三人の牧野をめぐる静かな戦いは。
無意識に身分違いの恋に怯える牧野に警戒心を与えないように、俺たちは慎重に少しずつこっちの世界に牧野を引き込んでいった。
俺たちF3に磨かれた牧野は、今じゃどこに出しても恥ずかしくないレディになったんだ。
同時に俺たちは牧野の心配を取り除くべく、家族や周囲に牧野との付き合い、最終的には結婚するにあたっての障壁を無くしていった。
つまり自分たちが政略結婚などに頼らずともやっていけると、認めさせる努力を怠らなかった。
類はもともと牧野一筋だったし、総二郎も俺も不誠実な遊びをすっぱりと止めたんだ。
在学中から手伝っていた仕事も卒業後は真摯に取り組んだ。
───全ては牧野を手に入れるために。
ジャケットのポケットに入れていたスマホが震えて、あきらを現実に引き戻す。
確認するとあきらの裏用の秘書から。
なんだ?
何か判ったのか?
メールの内容を確認しようとして、やけに静かだと思ったらつくしが空になったマグカップを持ったまま、ソファに倒れ込むように眠っていた。その手からマグカップをそっと取るとソファに横たえ、ジャケットを脱ぎつくしにかけてから、ゲストルームへ向かいベッドの用意を整える。
そうしてリビングに戻ると眠るつくしを抱き上げベッドまで運んだ。
「うん……」小さく唸って寝返りを打つつくしの頬にかかる髪をそっと払って後ろに流す。
と、目に留まったのは首筋にある薄赤いあざ。
これって……キスマーク?
色からするとまだ付けられてからそんなに時間が経ってない。
いったい何があったんだ。
ここについてからは気丈に振る舞ってはいたが、無理をしていたのなんてすぐに解った。
いいさ今は眠ればいい。
ここは安全だから、俺がお前を守るから。
目が覚めて腹が減っていたら、冷蔵庫の中から何でも好きな物を食べて構わない。
俺は隣の部屋で寝ているから、何かあったら遠慮なく起こしてくれ。
くれぐれも一人で帰ろうなんてするなよ。送っていくからな。
ナイトテーブルの上にメモを残し、眠るつくしのこめかみにキスをして灯りを落としフットライトの柔らかいオレンジ色の灯りだけを点けて部屋を出た。
そういえばさっきのメールをまだ見ていなかったな。
画面をタップしメールを確認する。
秘書からのメールの内容は主に三つ。
・昨日から総二郎とは誰も連絡がつかない事。
・類から牧野が行方不明になっているから探して欲しいとの事。
・司が北川原の工場を爆破しに行ったきり、連絡を絶っている事。
牧野は俺のところにいるから、何もしなくていい。
総二郎は何やってんだ?連絡もつかねぇって。
問題は司だ。
爆破しに行ったっきり連絡が取れないってことは、もしかすると爆発に巻き込まれているのか。
もしくは北川原の残党に捕まったか。
何にしても秘書に至急情報収集を指示する。
特に司の身の安全の確認についてはASAP(注)を付けて。
牧野の事は類には一先ず言わずにおいておくことにした。類と一緒に無事脱出したはずの牧野が、なぜ泣きながら類の家の近くを歩いていたのかが気に掛ったからだ。
今日は俺も疲れた。
簡単にシャワーを浴び汗と埃を洗い流してベッドに潜り込む。するとあっと言う間に瞼が重くなり眠りの世界へ引き込まれていった。
翌朝目が覚めるとつくしの部屋に行くがベッドに姿はなく、ならばリビングかと足を向ける。
リビングから微かな音が聞こえて人の気配がする。
ドアを開けるとそこにはつくしが冷蔵庫から出したのだろうペットボトルのミネラルウォーターを飲む後姿。
「おはよ、牧野。よく眠れたか?」
声をかけると面白いほどびくんっと身体を跳ねさせて驚いている。
「ゲホッ、ゲホゲホ……」
「驚かせたか?悪い」
「ゴホッ…だ、大丈夫だよ。美作さん気配しないんだもの」
「あ、忘れるところだった。おはよう。あと昨日ベッドに運んでくれたんでしょ?ありがとう」
「シャワー浴びてこいよ、昨日はあのまま寝てしまって気持ち悪いだろ?着替えなら適当に届けさせるから、それまでは悪いけど俺の服で我慢してくれ」
寝室のクローゼットからスウェットを取り出して、リビングにいるつくしに手渡す。
「ほらデカいけど、大は小を兼ねるって言うしな、とりあえずこれ着てろよ」
「あ、ありがとう」
ここはいつ使ってもいいように一通りの食材は揃っているので、つくしがシャワーを浴びている間に簡単な朝食を準備する。
そういや、司と総二郎は見つかったのか?
牧野の事ばかり考えてて忘れてた。
スマホを確認すると数件のメール。
どれも秘書から。
・類からの伝言は、北川原に捕まった時にスマホを奪われてしまったので新しい連絡先に連絡を求める内容。
・総二郎はどこにいたのかは書いてないが、連絡は取れた様子。
・司も爆破で飛んできた破片に当たって怪我はしているものの、命に別状はないとの事。
よかった……
司は無事なんだな。
もし司の身に何かあったら牧野がどう責任を感じるか、それが心配だったんだ。
秘書にみんなで今日中に至急集まりたいから、時間と場所の調整をするように……と返信をしてポケットにスマホを戻す。
そろそろつくしがシャワーから出てくる、テーブルに朝食を並べソファに座って目を閉じる。
今回の事の発端は、俺たちが牧野を手に入れるために仕組んだ写真が原因なんだから、その問題をきっちり解決しておかないと牧野が自ら離れて行ってしまう要因になりかねない。
ぱたぱたと軽い足音に笑みが浮かぶ。
あいつはいっつも忙しなく動いてるよな。
類が『小動物みたい』だって言ってたのがよく解る。
ドアが開いてつくしが入ってきた。
シャワーのせいか上気した顔。
ふわりと漂うボディーソープの匂い。
「美作さん、ありがとう。さっぱりしたよ」
「ブッ、お、お前……そのかっこ。ククク」
「ああこれ?ほんとにあんたたちって無駄に手足が長いんだから」
袖も裾も折り返してはいるがブカブカなのは一目瞭然で、大きく開いた首元からは華奢な鎖骨が覗いている。
色気がないと思っていたけど、ちらちら見える仄かにピンクに染まった肌にこっちの体温が上がりそうだ。
好きな女が俺の服を着てるってのはいいよな。
「朝食作ったから一緒に食べようぜ」
このままだとヤバい事になりそうだったので、話題をつくしの好きな食べる事に方向転換させる。
「うわぁ~美味しそう!これ美作さんが作ったの?」
「ああ、簡単なもんばっかで悪いけど」
「そんな事ないよ~どれもすっごく美味しそうだもん」
よかった。
俺の中の変な熱が下がっていく。
「「いただきます」」
食事の前に手を合わせて『いただきます』と言うのも、つくしと食事を一緒にとる機会が増えてから身に着いた習慣だ。
「美味しいっ!このスクランブルエッグとろとろでふわふわ~」
「ベーコンもカリカリで美味しぃ~」
「うわっ、いちごがこんなに大きくて、う~ん……甘~い」
一口食べる度にほにゃと緩む頬。
本当に美味しそうに食べるから、見てるこっちまで美味しくなるんだ。
用意した朝食を二人で全てたいらげて、手を合わせて「ごちそうさま」これも一緒に言う。
つくしといると小さな幸せを実感する事が多い。
こんな非常時なのに幸せをくれるつくしの存在。
───俺のものにしたい。
でも……
牧野はあいつらみたいに自分の気持ちをぐいぐい推し付けたら、その分後退って逃げるんだ。
俺たちとの関係に怯えさせてはいけない。
だから慎重に事を運ばないと。
失敗は出来ない。
「美作さん?どうしたの?ぼうっとして」
「んっ!?ああ……ちょっと考え事をな……」
「なぁ牧野、今回の事。なんでお前が巻き込まれたのか聞いてるか?」
「……う、ん。類から車の中で……聞いたよ」
何だ?
歯切れの悪い言葉に不安になった。
類、こいつに何を言った?
でないと、牧野の瞳がこんなに左右に落ち着きなく動く訳がない。
昨日、何があったんだ。
「どこまで聞いた?」
「うん……類にお見合いの話があって…………」
訥々と昨日の出来事と類から聞いた内容を話すつくし。
「よかったな無事に脱出できて……で、何で俺の家に来ないで類の家に行く事になったんだ?」
あきらのこの言葉につくしの身体がびくんと揺れた。
やっぱり類と何かあったんだな。
「無理にとは言わない。けど、話してくれないか?」
「それとも俺には話したくない?」
躊躇うつくしを優しく促すあきらに漸く口が開く。
「あの雑誌の事なんだけど、F3があたしの事が好きで道明寺に宣戦布告する為に書かせたってほんとの事なの?」
「誰から聞いた?その話」
「桜子から」
ちっ、桜子のやつ余計な事を。
どうせ今の関係に満足してる牧野に焦れて、発破を掛けるつもりでやったんだろうけど、いきなりそんな話をしても混乱するだけだ。
当事者でもないくせに。
どうせ“私には何でもお見通しです”っていつものしたり顔で言ったんだろうけど、横から余計な口出しをするんじゃねぇ。
俺たちには俺たちの計画があったんだ。それをぶち壊しやがって。
「ああそうだ、俺たちは牧野……お前が好きだ」
知られてしまったものは仕方がない。
本当はあの記事で、俺たちを安心できる友人ではなく一人の男だと意識させてから……と思っていたんだが計画変更だ。
「そんな……」
「本当に気付かなかった?俺たちの気持ちに。気付きたくなかったからじゃないのか?俺たちの気持ちにも、自分の気持ちにも……」
「急なことで戸惑っているのは解る。でも、俺たちの気持ちからは逃げないで欲しいんだ。誰かを選べとは言わない、ただ真剣に向き合って欲しいんだ」
「頼む」と頭を下げる。
「昨日、類にも言われたの。『好きだ』って『俺は友達なのか』って……」
「あたしね、今まで考えた事なかったの。うううん、違う。考えないようにしてたのかもしてない、今の関係を壊したくなかったから。でも『壊してやりたくなる』って類に言われて、どうしたらいいのか判らなくなっちゃって類のところから逃げてきちゃったの」
テーブルの上に視線を落としたつくしの瞳には、今にも零れそうな涙が盛り上がっている。
あきらは昨夜から気になっていた事をつくしに訊ねた。
「牧野、聞いていいか?答えにくい事だったら無理に答えなくていいから」
つくしが頷くのを確認してから訊ねる。
「その首筋にあるのはキスマークだよな?何があった?もしかして……類か?」
サッと青褪めて首筋を隠すつくしの態度に確信を深める。
類のやつ焦って先走りやがったな。
「お前はどうしたい?もう類に会いたくないか?」
「会いたくないなんて思わない。むしろ会って謝りたい、私の曖昧な態度が悪かったんだと思うの。いつも類や美作さん西門さんに甘えてばかりいた私が悪いんだから」
「で、謝って……逃げないできちんと考えるよ。みんなの気持ちを」
そこには決意に瞳を強く輝かせたつくしの姿があった。
あきらのスマホが震える。
秘書からのメール。
そこにはあいつらと会う時間と場所が書かれていた。
あきらは了承をメールで送信してつくしの瞳を見つめながら話し出した。
「牧野、覚えてるか?高等部の時に公園で逢った夜のことを」
「お前は『F3を太陽に例えると、俺は月って感じ』だと言った」
「うん。覚えてるよ」
「あの時の美作さんは月の光に融けて消えてしまいそうだった」
「あの時、俺は落ち込んでいたんだ。自分の存在は何なんだろう……って。お前に『月』そう言われて救われたんだ。“俺はあいつらみたいに太陽にならなくてもいい、三日月でいいんだ”って、そう思えたんだ。いや、そう思い込もうとした」
「でもな……本当は“俺も太陽にはなれなくても満月になりたい”って思ってたんだ。牧野、お前が傍にいてくれたら俺は満月になれる」
「私が?そんなの買い被り過ぎだよ」
手を顔の前でぶんぶん振って否定するつくし。
そんなつくしに苦笑いをしつつ話し続けるあきら。
「俺は牧野が好きだよ。あの夜、俺はお前に恋をしたんだ。でも司とのことを思ってその気持ちにブレーキをかけて閉じ込めた」
「でも司は約束の四年が過ぎてもお前を向かえには来なかった。それどころか連絡もつかない……だから俺たちは」
♪~♪~
不意に部屋に鳴り響くメロディ。
話を中断して、あきらがインターホンに対応する。
《・・・・・・》
「ああ、分かった」
《・・・・・・》
「そのまま持って来てくれ」
少しすると誰かが部屋のチャイムを鳴らして、玄関に行ったあきらの手には紙袋が数個。
「牧野、着替えが届いたから着替えろよ。サイズは大丈夫だと思うから、あと着ていた服はクリーニングに出すから、そのままここに置いておけばいい」
「ありがとう、着替えてくるね」
あきらの手から紙袋を受け取ったつくしは、着替えるために部屋を出て行こうとドアに向かう。
「着替えたら行くぞ」
「えっ?どこに?」
「あいつらのところだ。無事だって姿を見せとかないと心配するからな」
「それに……逃げないで向き合うんだろ?」
(注)as soon as possible[可及的速やかに]の略。
ビジネスメールなどによく使われています。

「お前!何泣いてんだよ」
脱出したら俺の家に集合するはずなのに、類も牧野も司も誰も来ない。
大丈夫なのか?
おまけに誰にも連絡も取れなくて、みんなが無事なのか心配になったあきらは一先ず類のところに向かっていた。
その途中で泣きながら、とぼとぼと俯き歩くつくしを見つけた。
「ここじゃ目立つ、とりあえず車に乗れ」
何も言わず静かにただ涙を流すつくしの肩を抱き、乗ってきた車の後部座席に乗り込むと運転手に小声で行先を告げる。
「牧野着いたぞ、歩けるか?」
いつもだったら車に乗ったらすぐ寝てしまうのに、今回は一言も喋らず呆然と下を向いて大人しく乗っていたつくし。
車が着いたことを告げても反応がない。
「一人で歩けそうになかったら抱いて行くけど……いいか?」
腰を抱き寄せ膝裏に手を差し込む。
そこまでしてやっとつくしがぴくりと身動ぎをした。
「……あ…美作さん。大丈夫……歩けるから」
足元の覚束ないつくしに手を貸しながらエレベーターに乗り込み、最上階から一階下のフロアにある一室に入る。
ここは美作の裏稼業用のシェルターを兼ねたマンションで、あいつらもここの存在は知らない。
お互いの秘密を敢えて探るような安っぽい関係でもない。
幹線道路から奥まった所に建っている低層の高級分譲マンションにみえるが、実は住人は全てうちの裏部隊の連中ばかりだ。
もし北川原の連中がまだ何かを仕掛けてきても、防御も完璧だしすぐに攻勢に転じることも出来る。
ここなら安全だ。
リビングのソファに座らせて頭をぽんぽんと軽く叩いて、あきらはキッチンで紅茶を淹れるべくケトルをコンロにかけてからつくしのところへ戻る。
さて、このお姫様から何があったのかを聞き出さないとな。
「今お茶入れてやるから、それ飲んでちょっと休め。な?」
小さく首が縦に動くのを確認して再度キッチンへ向かう。
落ち着かせるのなら紅茶よりハーブティーの方がいいのかもしれないと思い、カモミールをベースとしたハーブティーを淹れる。
甘いのもいるな。
クッキーを取り出し皿に並べる。
「ほら牧野これ飲んで。熱いから気を付けろよ。あとお袋が焼いたのじゃないけどクッキーがあったから食べろよ」
「いい匂い……ありがと」
つくしは両手でマグカップを包み込むように持つと、立ちのぼる香りを吸い込み少し微笑んだ。
ティーカップではなくマグカップにして正解だったな。
手のひらから伝わる温かさとカモミールの香りがつくしの心を解き解すのに少しは役に立ったようで、あきらも嬉しくなり口角が少し上がる。
「俺の特製ブレンドティーだからしっかり味わえよ?」
「ふふっ、美作さんってホントにまめよね。こういうのもマダムから教えてもらったの?」
「まさか」
マダムは関係ねぇよ。
これはいつもギリギリまで我慢して頑張っているお前に飲ませたくて、いつか飲ませたくて試行錯誤して完成させたんだ。
「牧野、お前は俺を誤解してるぞ、マダムとの火遊びはとっくに止めてる。大学卒業してからだから……もう四年になるか」
「えっ?そうだったの?知らなかった」
約束の四年が経っても司は牧野を迎えには来なかった。
その時から始まったんだ。俺たち三人の牧野をめぐる静かな戦いは。
無意識に身分違いの恋に怯える牧野に警戒心を与えないように、俺たちは慎重に少しずつこっちの世界に牧野を引き込んでいった。
俺たちF3に磨かれた牧野は、今じゃどこに出しても恥ずかしくないレディになったんだ。
同時に俺たちは牧野の心配を取り除くべく、家族や周囲に牧野との付き合い、最終的には結婚するにあたっての障壁を無くしていった。
つまり自分たちが政略結婚などに頼らずともやっていけると、認めさせる努力を怠らなかった。
類はもともと牧野一筋だったし、総二郎も俺も不誠実な遊びをすっぱりと止めたんだ。
在学中から手伝っていた仕事も卒業後は真摯に取り組んだ。
───全ては牧野を手に入れるために。
ジャケットのポケットに入れていたスマホが震えて、あきらを現実に引き戻す。
確認するとあきらの裏用の秘書から。
なんだ?
何か判ったのか?
メールの内容を確認しようとして、やけに静かだと思ったらつくしが空になったマグカップを持ったまま、ソファに倒れ込むように眠っていた。その手からマグカップをそっと取るとソファに横たえ、ジャケットを脱ぎつくしにかけてから、ゲストルームへ向かいベッドの用意を整える。
そうしてリビングに戻ると眠るつくしを抱き上げベッドまで運んだ。
「うん……」小さく唸って寝返りを打つつくしの頬にかかる髪をそっと払って後ろに流す。
と、目に留まったのは首筋にある薄赤いあざ。
これって……キスマーク?
色からするとまだ付けられてからそんなに時間が経ってない。
いったい何があったんだ。
ここについてからは気丈に振る舞ってはいたが、無理をしていたのなんてすぐに解った。
いいさ今は眠ればいい。
ここは安全だから、俺がお前を守るから。
目が覚めて腹が減っていたら、冷蔵庫の中から何でも好きな物を食べて構わない。
俺は隣の部屋で寝ているから、何かあったら遠慮なく起こしてくれ。
くれぐれも一人で帰ろうなんてするなよ。送っていくからな。
ナイトテーブルの上にメモを残し、眠るつくしのこめかみにキスをして灯りを落としフットライトの柔らかいオレンジ色の灯りだけを点けて部屋を出た。
そういえばさっきのメールをまだ見ていなかったな。
画面をタップしメールを確認する。
秘書からのメールの内容は主に三つ。
・昨日から総二郎とは誰も連絡がつかない事。
・類から牧野が行方不明になっているから探して欲しいとの事。
・司が北川原の工場を爆破しに行ったきり、連絡を絶っている事。
牧野は俺のところにいるから、何もしなくていい。
総二郎は何やってんだ?連絡もつかねぇって。
問題は司だ。
爆破しに行ったっきり連絡が取れないってことは、もしかすると爆発に巻き込まれているのか。
もしくは北川原の残党に捕まったか。
何にしても秘書に至急情報収集を指示する。
特に司の身の安全の確認についてはASAP(注)を付けて。
牧野の事は類には一先ず言わずにおいておくことにした。類と一緒に無事脱出したはずの牧野が、なぜ泣きながら類の家の近くを歩いていたのかが気に掛ったからだ。
今日は俺も疲れた。
簡単にシャワーを浴び汗と埃を洗い流してベッドに潜り込む。するとあっと言う間に瞼が重くなり眠りの世界へ引き込まれていった。
翌朝目が覚めるとつくしの部屋に行くがベッドに姿はなく、ならばリビングかと足を向ける。
リビングから微かな音が聞こえて人の気配がする。
ドアを開けるとそこにはつくしが冷蔵庫から出したのだろうペットボトルのミネラルウォーターを飲む後姿。
「おはよ、牧野。よく眠れたか?」
声をかけると面白いほどびくんっと身体を跳ねさせて驚いている。
「ゲホッ、ゲホゲホ……」
「驚かせたか?悪い」
「ゴホッ…だ、大丈夫だよ。美作さん気配しないんだもの」
「あ、忘れるところだった。おはよう。あと昨日ベッドに運んでくれたんでしょ?ありがとう」
「シャワー浴びてこいよ、昨日はあのまま寝てしまって気持ち悪いだろ?着替えなら適当に届けさせるから、それまでは悪いけど俺の服で我慢してくれ」
寝室のクローゼットからスウェットを取り出して、リビングにいるつくしに手渡す。
「ほらデカいけど、大は小を兼ねるって言うしな、とりあえずこれ着てろよ」
「あ、ありがとう」
ここはいつ使ってもいいように一通りの食材は揃っているので、つくしがシャワーを浴びている間に簡単な朝食を準備する。
そういや、司と総二郎は見つかったのか?
牧野の事ばかり考えてて忘れてた。
スマホを確認すると数件のメール。
どれも秘書から。
・類からの伝言は、北川原に捕まった時にスマホを奪われてしまったので新しい連絡先に連絡を求める内容。
・総二郎はどこにいたのかは書いてないが、連絡は取れた様子。
・司も爆破で飛んできた破片に当たって怪我はしているものの、命に別状はないとの事。
よかった……
司は無事なんだな。
もし司の身に何かあったら牧野がどう責任を感じるか、それが心配だったんだ。
秘書にみんなで今日中に至急集まりたいから、時間と場所の調整をするように……と返信をしてポケットにスマホを戻す。
そろそろつくしがシャワーから出てくる、テーブルに朝食を並べソファに座って目を閉じる。
今回の事の発端は、俺たちが牧野を手に入れるために仕組んだ写真が原因なんだから、その問題をきっちり解決しておかないと牧野が自ら離れて行ってしまう要因になりかねない。
ぱたぱたと軽い足音に笑みが浮かぶ。
あいつはいっつも忙しなく動いてるよな。
類が『小動物みたい』だって言ってたのがよく解る。
ドアが開いてつくしが入ってきた。
シャワーのせいか上気した顔。
ふわりと漂うボディーソープの匂い。
「美作さん、ありがとう。さっぱりしたよ」
「ブッ、お、お前……そのかっこ。ククク」
「ああこれ?ほんとにあんたたちって無駄に手足が長いんだから」
袖も裾も折り返してはいるがブカブカなのは一目瞭然で、大きく開いた首元からは華奢な鎖骨が覗いている。
色気がないと思っていたけど、ちらちら見える仄かにピンクに染まった肌にこっちの体温が上がりそうだ。
好きな女が俺の服を着てるってのはいいよな。
「朝食作ったから一緒に食べようぜ」
このままだとヤバい事になりそうだったので、話題をつくしの好きな食べる事に方向転換させる。
「うわぁ~美味しそう!これ美作さんが作ったの?」
「ああ、簡単なもんばっかで悪いけど」
「そんな事ないよ~どれもすっごく美味しそうだもん」
よかった。
俺の中の変な熱が下がっていく。
「「いただきます」」
食事の前に手を合わせて『いただきます』と言うのも、つくしと食事を一緒にとる機会が増えてから身に着いた習慣だ。
「美味しいっ!このスクランブルエッグとろとろでふわふわ~」
「ベーコンもカリカリで美味しぃ~」
「うわっ、いちごがこんなに大きくて、う~ん……甘~い」
一口食べる度にほにゃと緩む頬。
本当に美味しそうに食べるから、見てるこっちまで美味しくなるんだ。
用意した朝食を二人で全てたいらげて、手を合わせて「ごちそうさま」これも一緒に言う。
つくしといると小さな幸せを実感する事が多い。
こんな非常時なのに幸せをくれるつくしの存在。
───俺のものにしたい。
でも……
牧野はあいつらみたいに自分の気持ちをぐいぐい推し付けたら、その分後退って逃げるんだ。
俺たちとの関係に怯えさせてはいけない。
だから慎重に事を運ばないと。
失敗は出来ない。
「美作さん?どうしたの?ぼうっとして」
「んっ!?ああ……ちょっと考え事をな……」
「なぁ牧野、今回の事。なんでお前が巻き込まれたのか聞いてるか?」
「……う、ん。類から車の中で……聞いたよ」
何だ?
歯切れの悪い言葉に不安になった。
類、こいつに何を言った?
でないと、牧野の瞳がこんなに左右に落ち着きなく動く訳がない。
昨日、何があったんだ。
「どこまで聞いた?」
「うん……類にお見合いの話があって…………」
訥々と昨日の出来事と類から聞いた内容を話すつくし。
「よかったな無事に脱出できて……で、何で俺の家に来ないで類の家に行く事になったんだ?」
あきらのこの言葉につくしの身体がびくんと揺れた。
やっぱり類と何かあったんだな。
「無理にとは言わない。けど、話してくれないか?」
「それとも俺には話したくない?」
躊躇うつくしを優しく促すあきらに漸く口が開く。
「あの雑誌の事なんだけど、F3があたしの事が好きで道明寺に宣戦布告する為に書かせたってほんとの事なの?」
「誰から聞いた?その話」
「桜子から」
ちっ、桜子のやつ余計な事を。
どうせ今の関係に満足してる牧野に焦れて、発破を掛けるつもりでやったんだろうけど、いきなりそんな話をしても混乱するだけだ。
当事者でもないくせに。
どうせ“私には何でもお見通しです”っていつものしたり顔で言ったんだろうけど、横から余計な口出しをするんじゃねぇ。
俺たちには俺たちの計画があったんだ。それをぶち壊しやがって。
「ああそうだ、俺たちは牧野……お前が好きだ」
知られてしまったものは仕方がない。
本当はあの記事で、俺たちを安心できる友人ではなく一人の男だと意識させてから……と思っていたんだが計画変更だ。
「そんな……」
「本当に気付かなかった?俺たちの気持ちに。気付きたくなかったからじゃないのか?俺たちの気持ちにも、自分の気持ちにも……」
「急なことで戸惑っているのは解る。でも、俺たちの気持ちからは逃げないで欲しいんだ。誰かを選べとは言わない、ただ真剣に向き合って欲しいんだ」
「頼む」と頭を下げる。
「昨日、類にも言われたの。『好きだ』って『俺は友達なのか』って……」
「あたしね、今まで考えた事なかったの。うううん、違う。考えないようにしてたのかもしてない、今の関係を壊したくなかったから。でも『壊してやりたくなる』って類に言われて、どうしたらいいのか判らなくなっちゃって類のところから逃げてきちゃったの」
テーブルの上に視線を落としたつくしの瞳には、今にも零れそうな涙が盛り上がっている。
あきらは昨夜から気になっていた事をつくしに訊ねた。
「牧野、聞いていいか?答えにくい事だったら無理に答えなくていいから」
つくしが頷くのを確認してから訊ねる。
「その首筋にあるのはキスマークだよな?何があった?もしかして……類か?」
サッと青褪めて首筋を隠すつくしの態度に確信を深める。
類のやつ焦って先走りやがったな。
「お前はどうしたい?もう類に会いたくないか?」
「会いたくないなんて思わない。むしろ会って謝りたい、私の曖昧な態度が悪かったんだと思うの。いつも類や美作さん西門さんに甘えてばかりいた私が悪いんだから」
「で、謝って……逃げないできちんと考えるよ。みんなの気持ちを」
そこには決意に瞳を強く輝かせたつくしの姿があった。
あきらのスマホが震える。
秘書からのメール。
そこにはあいつらと会う時間と場所が書かれていた。
あきらは了承をメールで送信してつくしの瞳を見つめながら話し出した。
「牧野、覚えてるか?高等部の時に公園で逢った夜のことを」
「お前は『F3を太陽に例えると、俺は月って感じ』だと言った」
「うん。覚えてるよ」
「あの時の美作さんは月の光に融けて消えてしまいそうだった」
「あの時、俺は落ち込んでいたんだ。自分の存在は何なんだろう……って。お前に『月』そう言われて救われたんだ。“俺はあいつらみたいに太陽にならなくてもいい、三日月でいいんだ”って、そう思えたんだ。いや、そう思い込もうとした」
「でもな……本当は“俺も太陽にはなれなくても満月になりたい”って思ってたんだ。牧野、お前が傍にいてくれたら俺は満月になれる」
「私が?そんなの買い被り過ぎだよ」
手を顔の前でぶんぶん振って否定するつくし。
そんなつくしに苦笑いをしつつ話し続けるあきら。
「俺は牧野が好きだよ。あの夜、俺はお前に恋をしたんだ。でも司とのことを思ってその気持ちにブレーキをかけて閉じ込めた」
「でも司は約束の四年が過ぎてもお前を向かえには来なかった。それどころか連絡もつかない……だから俺たちは」
♪~♪~
不意に部屋に鳴り響くメロディ。
話を中断して、あきらがインターホンに対応する。
《・・・・・・》
「ああ、分かった」
《・・・・・・》
「そのまま持って来てくれ」
少しすると誰かが部屋のチャイムを鳴らして、玄関に行ったあきらの手には紙袋が数個。
「牧野、着替えが届いたから着替えろよ。サイズは大丈夫だと思うから、あと着ていた服はクリーニングに出すから、そのままここに置いておけばいい」
「ありがとう、着替えてくるね」
あきらの手から紙袋を受け取ったつくしは、着替えるために部屋を出て行こうとドアに向かう。
「着替えたら行くぞ」
「えっ?どこに?」
「あいつらのところだ。無事だって姿を見せとかないと心配するからな」
「それに……逃げないで向き合うんだろ?」
(注)as soon as possible[可及的速やかに]の略。
ビジネスメールなどによく使われています。

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