aphrodisiac ~Darkness~
求めて、求めて、求めてしまうのだろうか
出迎えも何もなく手渡された封筒を見た瞬間、つくしは全てを失ったと改めて理解した。纏まらない思考の中で目の前のバスに乗った。
「お客さん 終点ですよ」
声を掛けられるまでバスが止まったことに気がついていなかった。慌てて立ち上がりステップを降りた。上部の鏡にチラリと映った自分があまりにみすぼらしくて、つくしは死んでしまいたいと思った。
でも____死ぬ間際まで生きることへ執着していた里佳子を見ていたつくしには、自ら死を選ぶ事など出来なかった。
でもそれは、生きることの尊さを感じたからではない。死んでしまったら全てが終わりなのだと改めて知ったからだ。
死に行く里佳子をみて悟った。一度きりの人生なら自分のやりたいように生きようと。
次の瞬間、つくしは、はたと気づいた。やりたいことなど何も存在しない空っぽの自分に。
ならば、目の前の女の人生を奪おうと決めた。
里佳子への恩や憧れ____そんなものは、つくしの中に芽生えた事などなかった。里佳子になれるとも、なりたいとも一ミリたりとも思ったこともなかった。
里佳子に対して感じていたのは、憎しみと憐れみだけだった。
いつから? そんな事も忘れてしまうほどに、気がつけば里佳子を憎み、憐れんでいた。
何故? 理由は至極明快だ。里佳子は、つくしの持ちたかった全てを持っている。なのに……里佳子はバカがつくほど一途に、今泉を愛していたからだ。
愛に全身全霊をかける人生など、
馬鹿げていると憐れんだ。
今泉の女癖の悪さなど百も承知だった。それでも彼を愛し信じるふりをしたのは、里佳子を真似たから。
里佳子のように、汚いものは見ぬふり、知らぬふりをしようと決めたからに過ぎない。
ただひとつ、つくしが模倣できなかったのは、里佳子が持っていた実家の力だった。
だから、自分の持つ駒を最大限に使っただけだ。それの何が悪いと言うのだ。
「ふっ」
何が可笑しいのか、つくしは薄い笑いを唇に浮かべ、吐き捨てるように言葉を口にする。
「バカな男たち」
失望した?
あたしが変わった?
一朝一夕で、そうなったわけでもあるまいし、あの男達はどんな幻想を自分に抱いていたのだろうと。
つくしの中に、フツフツと怒りが沸いてくる。なぜ、彼等に自分の人生をこうも翻弄されなければいけないのかと。
なにも知りもしない癖に……吐き捨てるように投げ付けられた言葉の数々。
自分達とて汚ないことなど山ほど手を染めているだろうに。なぜ彼等は、あたしにだけ理想を求めるのだ。
真っ直ぐなお前が好きだった。お人好しなお前が好きだった。
俺らを変えた女?
フザケルナ
真っ直ぐだから、お人好しだから……逃げたしたと言うのに。
司と会えない四年の間に、三人は、つくしを親友の彼女としてではなく、一人の女として欲したのだ。ふと触れた指先から、見つめられた眼差しから、三人の愛を感じていた筈なのに、つくしは友に向ける優しさだと、気付かぬふりをした。それが悪かったのだと気が付いたのは、司が帰国した席での三人のつくしを見つめる視線だった。
司だけを愛していた筈なのに……気付けば自分自身も三人を愛し始めていた。
愕然とした。このままでは、四人の友情を壊すことになると。
ソンナコト ユルサレナイ
……真っ直ぐだから、上手く立ち回れる自信がなかった。
自分さえ居なくなればと、内定していた会社も辞退し、四人の前から姿を消したのだ。
痩せても枯れても一流大卒。職探しに不自由しない自信があったのに、四人が関連していない企業などなく途方にくれた。そんなとき
街で偶然、天草に再会した。天草の口利きで里佳子を手伝うようになった。つくしの持ち前の気働きで瞬く間に里佳子の右腕になった。
何くれとなく力になっていた天草に、押しきられる形で付き合うようになったのも丁度この頃だった。天草の存在が里佳子のガードを緩くしたのか、今泉の邸にもつくしは自由に出入りした。里佳子の秘密を知ったのも、それが切っ掛けだった。
つくしは、この時少しだけ里佳子を好きになった。里佳子が病に伏した時、懇親的に世話をしたのも里佳子が抱える秘密があったからだ。
身体中を襲う痛さと苦しみで戦いながらも、信次郎と会うときは必ず薄化粧を施し笑みを浮かべていた里佳子。
「生きたい、生きたい、死にたくない……あの人の願いを叶えてあげられるのは、私だけなのに」
うわ言のように、つくしに訴え続けた里佳子。
そのさまは、憐れで、憐れで……美しかった。
だから、つくしは決めた。目の前の女の人生を奪うと。
里佳子になるためには、今泉を手に入れなければいけなかった。そのためにつくしは、里佳子の思いを引き継ぎたいと涙を流し、天草を捨てた。
今泉の正式な妻になるために、しおらしく見せながらありとあらゆる物を利用した。人の良さげなふりをして、後援会の奥様方の秘密を幾つも掴み、ちらつかせながら餌を与えた。
欲にまみれた女達は、つくしの指示に面白いように従った。バカな女達だと心の中で蔑んだ。
「バカは、あたし……か……」
天草となら、こんな結末は待っていなかっだろう。世の中で言う “幸せ” だけでなく、つくしが望めば、本当にクリーンな大臣の妻というステータスを手に入れられたことだろう。
自分を愛する男の手によって、正攻法でのしあがれた筈だ。
でも、あの瞬間、つくしは天草のことを少しも愛していないことに気がついてしまったのだ。
裏切りに近い形で捨てたのに、天草はつくしに執着した。親の地盤を引き継いだ天草が、今泉派閥に入る事を条件にして、つくしを求めたのは、何年前になるだろう?
天草だけではない。ある種の男にとって、自分の身体はとてつもなく価値があると知ってから、つくしは、幾度となくそれを利用した。
つくしが、今泉の行っている様々な悪事を知っていたように、今泉とて、それを分かっていただろう。
お互いに仮面を被り、上手くやってきた筈だ。
ただ、自分が何を求め、何がために生きているのか時おり分からなくなるだけだ。そんな時は、里佳子の形見の結婚指輪に触れ、気持ちを落ち着かせた。
精神の均衡が崩れ始めたのは、いつものように天草と情事を交わしたあとの会話からだった。
「今泉さん、次の総選挙には、いよいよ大臣だ。里佳子さんとつくしとの夢がやっと叶うな。俺も今まで以上に尽力するよ」
願いが叶う筈なのに、つくしの心に恐怖が襲った。今泉を大臣にさせるという里佳子の願いが叶ったあと、自分は何を糧に生きれば良いのだろうと。
だから…………
今泉の不正にたいし、多田と名乗る男が強請りをかけてきた時には、安堵が心に広がった。
空っぽに戻らなくていいのだと
本来なら、いつも通りに天草に処理を頼めば良かっただけだ。
なのに……
美容院で、偶然手にとった雑誌にF4の記事が載っていたのを見て、つくしの鼓動は早鐘のように鳴り、頬は上気した。
“会いたい” いや、今泉のために “会いに行かなければ” いけないと。
なにも恐れることはない。牧野つくしではなく、里佳子のように夫を盲信する妻として会いに行けばいいのだから。
会いたくて、会いたくて、会いたくて、会いたくて……でも、会いにいけなかった彼等に。
あきらに、総二郎に、司に抱かれ、全てを失った。そして、誰も訪れない病室で、里佳子になれなかった自分を知った。いや、里佳子の願いだった“今泉を大臣に”が叶ったのを知った。
つくしに復讐するために司は、今泉陣営についたのだ。どんな形にせよ、里佳子の願いが叶ったことで、憑き物が落ちたようにつくしの心は凪いでいった。そんな素振りを見せず、なるたけ惨めに憐れに見えるように振る舞った。
男達は、惨めなつくしを見て満足したのか、離婚と引き換えに監獄のような病棟から解き放った。
あてどなく旅をした。海の見えるこの街に腰を落ち着かせたのは、今から一年ほど前になる。
人から見れば、転落の人生なんだろう。でも、いまつくしは、心の底から幸せな毎日を送っている。
自分に素直に生きることに決めたのだ。真っ直ぐに、どこまでも真っ直ぐ正直に。
例えそれが友情関係を壊し、お互いを嫉妬で狂わそうとも
……彼等がそう望んだのだから。
「あっ、動いた」
愛おし気にお腹に手を当てる。ポコン、ポコンと元気に手足を動かしているのを楽しみながら
「誰に似たのかしら? うふふっ、誰に似ても優秀な遺伝子よね。それに、誰の子でも愛おしい男の子供で、なによりも、あたしの子よね」
幸せで堪らないといった表情を浮かべ、つくしは微笑む。満ち足りたその微笑みは、聖母のようにも、妖婦のようにも見える。
来訪を告げるチャイムの音が鳴る。つくしは、腹に手を添えたまま立ちあがる。
愛する男を迎え出るために。
つくしは、いま……満ち足りている。