ひとひら 総つく
「ゆき……?」
慌てて窓を開ければ、山茶花の花がヒラヒラと木枯らしに舞っていた。この季節に雪なんて降るわけもないかとクスリと笑う。
いや、違う。
絶対にあり得ないなど____この世には存在しないことじゃないのかと。
フワリとした笑みをつくしは浮かべながら、頬杖をつき風に舞う山茶花をしばし楽しんだ。
贅沢過ぎる庭を持つこの家に初めて訪れた時も山茶花が舞っていた。山茶花の舞う中、振り向いた総二郎に、この男が欲しいとつくしは、劣情を感じた。 相手になどされないのはわかっていたから、“友達” のフリを続け、心をひた隠しにした。
「……四度目も見れるかしら?」
「うんっ? 何が四度目だって?」
後ろから声をかけられ、つくしはゆっくりと振り向いた。
「内緒よ」
「内緒とはつれないねぇ」
「でしょ」
「あぁ、つくしは本当につれないなぁ」
「あたしだって、たまには秘密の一つや二つ無ければね」
そう言いながら、開け放していた窓を閉める。
総二郎は、つくしの後ろ姿を見つめ
「つくし……これから西門に行ってくる」
声をかける。
「……残りの山茶花も今日までかしら……」
総二郎の声が聞こえたのか、聞こえていないのか? つくしは、振り向かずに外を見つめている。小さな肩が頼りなげに揺れて見えるのは、気のせいなのか? その肩に触れたくて、総二郎は指を伸ばす。今一つの勇気が出ずに伸ばした指を引っ込める。
つくしが振り向き
「帰りは明日になる?」
笑顔で聞かれ……都合のよい思い違いだったのかと、総二郎は薄っすらと笑みを浮かべた。
「いや、日付が変わらないうちには帰ってくるつもりだ。なるたけ早く帰ってくるつもりだけど、戸締まりはちゃんとしろよ」
「はいはい。総さんは心配性ね。子供じゃないんだから大丈夫よ。総さんこそ帰りの電車乗り過ごさないようにね」
「つくしじゃあるまいし。大丈夫だ」
「あら、失礼しちゃう」
つくしが屈託なくケラケラと笑う。
総二郎が、棚田の見えるこの地に移り住んで二年半が経つ。つくしが、ボストンバッグ一つ抱えて門戸を叩いたのは、総二郎がこの地に来て半年後のことだった。
「総さん、居候させてくれない?」
突拍子のない申し出だった。
不意を突かれた総二郎は、「駄目だ」と言えずに「何故だ?」と聞いていた
「行くところがないの。掃除でも洗濯でも料理でも何でもするから。あたしを置いて。ねっ。友達でしょ」
ニッコリ笑って“友達でしょ” と言われれば、頷くしかなくて……それからの日々、棚田の見えるこの家に共に暮らしている。
二人は、“友達” という言葉に縛られながらも、仲睦まじく、同じものを愛で、同じものを食べ、同じ時を過ごしている。
******
鬼が棲んでいるのかもしれない。総二郎の乗ったタクシーを見送りながら、自分の犯した罪を思い、そんなことを考えた。本来ならば、この思いを手放し、総二郎を自由にさせなければいけないのに、呆れる程の独占欲で総二郎を雁字搦めにしている。我ながら業の深い女だと、つくしは思う。
でも、でも、でも
「愛しているの____」
小さくなる車に向けて、言葉を発した。
ひらり、目の前で舞う山茶花の花びらを目で追いながら、覚悟を決めてこの家に来た日を思い出す。
最終電車に乗り駅に降り立った。都内から一時間ほどで着くというのに、なんだか途方もなく遠くまで来た気がした。タクシーに乗り込み、目印の神社の名を告げた。 ウォーンと犬が吠える真っ暗闇の中を、笑顔の練習をしながら一人歩いた。物陰で誰かが見ていたら、きっと頭の触れた女だと思っただろう。裏木戸を開け、庭の中に入っていった。その時も山茶花が、ひらり と風に舞っていた。
呼び鈴の音を聞き、怪訝な顔をして出てきた総二郎に
「総さん、居候させてくれない?」
足をガクガク震わせながらも、練習した笑顔でそう聞いた。「何故だ?」と聞かれ、“ 友達でしょ ” と 言葉を返せば、苦笑いを浮かべながら一緒に住む事を了承してくれた。嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて、心が震えた。
あの夜から、神に乞うように
「女として愛されることは望みません。だから、だから、どうかお願いです。一日でも長く__いいえ、一分でも、一秒でも長く一緒にいさせてください」
つくしは祈っている。
電車に揺られながら総二郎は、手の甲の微かに残る傷跡を見る。
棚田の見えるあの家に、つくしを初めて連れていったのは、たまたまだった。なんの会話だったろう? 稽古のあとの他愛もない会話だった。「葉山にも棚田があるんだぞ」そんな話しになって、どちらともなく、見に行こうとなっていた。
山茶花の白い花びらが風にひらひらと舞っていた。振り向けば、目映いばかりのつくしがいて……あの瞬間、自分の気持ちに気がついた。大好きだった祖父母との思い出が沢山つまったこの家に、一人になりたい時に来るこの家に、何故つくしを連れて来たのかが。
気持ちを押し隠しながらも、つくしと逢うのをやめられなかった。つくしへの恋慕が深まれば深まるほどに、不思議なほど茶道への造詣が深まり、天賦の才が開花していった。今まで総二郎を青二才だと馬鹿にしていた才ある重鎮達までもが、総二郎の点てる茶に惚れ込んでいった。
自分の気持ちに嘘はつけなくなって、ほぼ決まりかけていた縁談を総二郎は反古にした。重鎮達も不思議なことにそれを許した。プライドを傷つけられた女は、自分に付きまとっていた男を言葉巧みにけしかけて、包丁でつくしを襲わせた。隣にいた総二郎がつくしを庇った。ザックリと切られた手の甲の筋。夥しい血に恐れをなして、男はガタガタと震えていた。それ以上の危害も加えられずに、駆け付けた警察に引き渡された。
次期家元の総二郎と、財閥の御曹司の婚約者のつくしが襲われた事件は、面白可笑しく書き立てられた。総二郎の元婚約者の指示とわかってからは、世間を一層騒がせた。世紀のシンデレラともてはやされていたつくしは、世紀の悪女と罵られるようになっていた。
後援会長は、西門に対して、総二郎を次期家元にするならば後援会を下りると声明を出した。長いものに巻かれろとばかりに幾にんも者達がそれに倣うと声を大きくしたのだ。
直ぐ様、総二郎は、次期家元の身を退いた。
同時に総二郎は、つくしの幸せを壊したくなくて……つくしと自分は “友達” だと。疚しいことは何もないと司に主張した。司は最後まで総二郎に会おうとはしなかったが、あらゆる機関に箝口令を敷き、総二郎とつくしの醜聞は瞬く間に消えていった。
西門が、どんな手を使っても小さくならなかった火種が、跡形もな消えた時、司の力を改めて思い知った。
あとは、つくし自身が誤解を解けば、時間は掛かるかもしれないが二人の関係は元通りになるだろうと思っていた。
総二郎は、つくしの前から姿を消した。
伸筋腱の二度目の再建手術とリハビリを終えたあと、祖父母のものだった棚田が見えるあの家を譲り受け居を構えた。
生前贈与としては、あまりにも少額な申し出に、誰しもが首を捻ったが、総二郎の望むものは、つくしと共に行った棚田の見えるあの家だけだった。
総二郎のあまりの欲の無さと、醜聞が下火になったこと、総二郎の才能に惚れ込んでいる重鎮達の口添えで総二郎が西門流を破門になることはなかった。
もともと、総二郎の中では、婚約を反古にした時点で、次期家元の座は弟に任せるつもりでいた。腱の再建手術も、有り難いことに上手くいった。だが、つくしは自分のせいで総二郎が全てを失ったと思っているのだろう。姿を消した自分を探しだし、共に居てくれるのだ。
「ずるいな……」
自分でも、最低な男だと理解している。
でも
「総さん、居候させてくれない?」
つくしにそう切り出された時____ズルクナレと総二郎の中の鬼が囁いた。つくしとの暮らしを手に入れられるチャンスだと。
“友達でしょ” 笑顔で言われ、邪な心を見透かれたのかと、総二郎は苦笑した。それでも、つくしの優しさを利用した。
いや、今もつくしの優しさを利用し続けている。泡末な幸せだとわかっていても、この幸せを失いたくないのだ。
俺は、何も失ってなどいない。お前はお前のまま羽ばたけと、背中を押したいのに……出来ないでいる。
つくしと総二郎は、週に一度、朝市に買い出しに行く以外は、棚田の見えるこの家から外に出ない。そんな日々を二人で過ごした。
庭の樹木でジャムを作り、草木で糸を染め反物を織る。轆轤を回して、窯で二人の器を焼いた。裏山に咲く花を摘み茶室に飾り、茶を点てる。繰り返す日常に感謝する。毎日が、いや、一瞬、一瞬が二度と繰り返しのきかぬものだから。
明日こそは、手放そう。そう思うのに
「おはよう総さん」
朝の挨拶を交わした瞬間に、もう一日だけと願ってしまう。
「それも今日で終わり……だ」
西門に今後の身の振り方で呼び出されたのと、沈黙を続けていた司から連絡があったのは、丁度同時だった。
「あいつに会いにいく」
一方的にそう伝えられ電話が切られた。
今頃、あの家に着いた司は、つくしと会っていることだろう。
その時
総二郎の乗る車両に年配の女性が、花を抱えて乗ってきた。
ひとひら、はらり……総二郎の手元に花びらが落ちた。
刹那
待ち合わせ中の電車から飛び降り、階段をかけ上る。逗子行きの電車に乗り家路についた。心が逸る。どうか、間に合いますようにと。
ガラリッ
格子戸を開け放し、靴を脱ぐのももどかしい思いで、家の中に入り
「つくし、つくし、つくし」
愛おしい者の名を呼ぶ。
台所から、のんびりとした声がして
「総さん、どうしたの? 忘れ物?」
つくしが、ひょっこりと顔を出した。
間に合った嬉しさからか、総二郎が無言でつくしを抱きしめた。訳のわからないまま時が過ぎていく。それでも……つくしは、何も言わずに黙って総二郎の温もりを甘受した。掌から握りしめていた木杓子が滑り落ちていく。
総二郎の指先がつくしの顎先を持ち上げたあと、つくしの唇に温もりが重なった。それが二人にとって初めての口づけだった。
「総さ…ん…」
「つくし、愛している」
愛しているの言葉に、つくしの目元に微笑みが広がり、涙が滲む。
「あたしも、あたしも、総さんが好き」
いったい、どれくらいの時間抱き合いキスをしていたのだろう。
微かに焦げ臭い臭いがして
「あっ」
総二郎の腕の中からすり抜けるように、つくしが台所にかけていく。総二郎も慌てて後を追いかける。
「あぁ」
つくしがしょんぼりした顔しながら振り向いて
「総さんの好きな柿ジャム……焦がしちゃった」
総二郎は、大きく笑って
「明日また二人で作ろう」
そう言いながら、もう一度ギュッと抱き締めた。つくしは、嬉しそうにコクンと頷いたあと
「ねぇ……なんで、突然帰ってきたの?」
つくしの問いかけに、意を決したように総二郎は言葉を口にする。
「司、日本に帰って来るって___お前に会いに来るって」
「道明寺が?……あたしに会いに?なんで?」
つくしが怪訝な顔で聞き返す。
「なんでって……それは、お前を忘れられないからだろ……それに……つくし、お前だって俺の怪我さえなければ」
「怪我さえ……なければ? それって、どういうこと? それに道明寺、結婚が決まって、来週には婚約発表よ」
つくしは、怒ったように……涙を滲ませ口にする。
「えっ?」
二人の間の長い長い誤解が解けていく。
つくしと司の恋は、あの騒動が起こるもっと以前に……そう、つくしが初めてこの家に来た時にはすでに破局していたのだ。ただ、世間的に、シンデレラだと持て囃されていたつくしとの別れは、道明寺財閥の株価に影響を及ぼしかねないと理由をつけて、一年間、別れたことは口にしないという約束で、周囲にはひた隠しにされていた。
二人が、互いの気持ちに気が付くよりも前に、司は二人の思いに気がついていたのだ。だから、道明寺財閥を盾に最後の悪足掻きをした。つくしを総二郎に、そう易々と渡してなるものかと。そして、出来るならば、もう一度やり直したいと思う気持ちも含まれていた。
「……だからか」
つくしにことのなり行きを聞き、総二郎は初めて理解した。道明寺財閥が直ぐに箝口令を敷かなかった事や、司が頑なに総二郎に会おうとしなかった事を。
「総さんが逗子にいるって、教えてくれたのは道明寺なの……」
「じゃ、なんで……」
口にしてくれなかったのかと、つくしに問おうとした瞬間……つくしも、自分と同じ気持ちだったのだと理解した。
今ならわかる。
ここにやって来た日、つくしの足が震えていた意味が。
時折、遠い目をしながら何かを見ていた意味が……
つくしをもう一度強く抱き締める。
風にひとひらの花びらが舞う。
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