御曹司は恋をする あきつく
腕時計のアラームが鳴る。
「うわっ、まずい」
女が駅の階段を一段抜かししながら、駆け上がる。電車の姿が見えて
「間に合った~」
そう口にした。その瞬間……
「ブギャッ」
女の口から変な声が漏れ、昇っていた筈の階段をズルズルと身体が滑り落ちていく。
グッ、全部落ちる前に踏ん張って、身体が止まった。
「ふぅっー」
顔から火を吹きそうなくらい恥ずかしいが、これを逃したらタクシーだ。今月6回目のタクシーはお財布事情にものすごく厳しい。一瞬の間にそう結論づけた女は、プルプルッと首を振り、ずり落ちたことなどなかったふりをして再びかけ上がった。
プシュゥ~
ギリギリの所で電車に乗り込めた。
「ふぅっー」
安堵のため息を吐き、電車の扉に身体を預ける。
グギッ
身体が傾いて、足でも捻ったかと女が足元を見れば
「あぁっ~」
この世の終わりかというような、悲痛な声を出したあと
「このピンヒール、冬のボーナス一括払いだったのにぃ……拾得物場ってどこだっけ……って、届くかな?」
ブツブツと独り言を言い出した。
絶賛独り言中の彼女の名前は、牧野つくし。 ごくごく簡単に彼女のことを説明すると、生まれた家は、一般的なサラリーマン家庭。家族構成もごくごく一般的で両親と弟の四人家族。公立中高一貫を経て国立大学卒業、就職難のこのご時世に菱田の総合職に入社した中々の才女だ。容姿は、白い肌と黒目がちの大きな瞳で中々可愛らしい顔をしているが……いかんせん色気にかける。
自慢じゃないが、新入生の時に生まれて初めて出来た彼氏に、二股三股ならいざ知らず、六股をかけられた事が判明したあと彼氏はいない。 それがトラウマになったのか?彼氏どころか、浮いた噂一つない。そんなつくしのウサ晴らしは、もとい、趣味は、将棋会館で将棋を指す事と、その帰りにするスイーツ巡り。妙齢な女性として些か色気のない生活をしている気もするが、本人的には至って満足している。
つくしがブツブツと独り言を呟いていた丁度その頃……
ピンヒールの踵を拾った男が長い睫毛をパタパタさせながら、目を瞬かせている。
「凄かったな……丸見えだったよな……」
かけ上がっていった階段を、もう一度眺めた時
「美作さん、あっちのホームですよ」
同僚達に声を掛けられて、ハンカチにくるんで握りしめていたヒールの踵を無意識にポケットに入れていた。
美作さんと呼ばれたこの男、かなり人目をひく容姿をしている。短く整えられた鳶色の髪、すっと通った涼しげな鼻梁、形のいい唇に、はしばみ色の瞳はアーモンド形をしている。加えて仕事も出来るし、物腰も優しく人当たりも抜群だ。そうそう実は彼、美作商事の御曹司だったりする。他所の飯を食ってから社に戻れで、母方の祖父が会長を勤める菱田で働いている。
翌朝、つくしは少しだけ早起きをして、改札でヒールの踵の落とし物はないかを訊ねた。
「ヒールの踵? うーん、届いてないですねぇ。ヒールの踵ですよね?うーん、ヒールの踵はねぇ~ 拾得物としては、ないですね。大概そう言ったものは、その場で拾われますからね~」
案の定と言うか、なんと言うか……ヒールの踵は見つからないで
「はぁぁ、ご足労おかけしました」
つくしは、ガックリと肩を落としながら、礼を述べその場を離れた。
「あぁ、捨てられちゃったのかな? そりゃね、ヒールの踵だもんね」
ブツブツと言いながら、歩き出した。
ブツブツ歩くつくしを見かけた美作。「ヒールの踵落とした子だよね?」と声をかけようとしたのだけど……生憎と、今は手元にない。それにだ。年頃の女の子が、あんな姿を見られたと知ったら恥ずかしくないか? 間違いなく恥ずかしいよな。うん。俺だったら間違いなく恥ずかしい。と考えたのだ。
追い越し様に、ちらりと見れば、胸に菱田の社章をつけている。
「へぇ」と呟いたあとに、だったら、こっそり彼女に届けようと思い立った。
「それには、先ずは、名前と、どこの部署かだな」
美作は歩を緩めて、つくしに追い抜かせた。
なのに……会社の近くにきてみれば、あっちで挨拶、こっちで挨拶と、ちっとも歩が進まない。解ったのは、つくしで、牧野で、牧ちゃんで、牧野先輩だってことだった。残念なことに、そこでタイムアウト。美作を待ち伏せしていた、受付嬢と秘書課の美女達に囲まれたのだ。
『まっ、今日のところは物もないし……だよな』
美作は、自分を納得させるかのように、心の中で呟いてからエレベーターに乗り込んだ。
美女に囲まれながら美作が考えていたのは、老若男女問わず、飛びっきりの笑顔で挨拶を交わしていた牧野つくしのこと。
『挨拶週間の見本みたいな子だよな……』
つくしの事を思ったあと、眦に柔らかい皺を寄せた。
そんなこんなが、何日か続いて_____昼食時、女子社員から送られる視線が煩わしくて行かなくなった社員食堂に赴いた。
不自然にならないように、辺りを見回した。『都合よく居るわけないか……』と、なんとなく肩を落とした時
「あっ、牧ちゃん、さっきありがとうね」
美作の後方から、つくしに話しかける声がした。ピンクの長財布を持ったつくしが、声の主に笑顔を返しなが、美作を一顧だもせずに横を過ぎていく。
「えっ?」
美作の形のいい唇から、驚きの声が小さく漏れる。
菱田では身分を名乗ってはいないが、美作商事の御曹司……周知の事実だ。いやいや、そんな事を知らなくとも、菱田のエリート社員で、この容姿だ。好むと好まざるに関わらず、女性からは憧れの視線を、男性からは羨望と嫉妬の視線を注がれてきた。
現に今だって注目の的だ。つくしに話しかけた女子社員も美作の存在に気がついてから熱い視線を注いでいる。なのにつくしは、ほんの少し難しい顔をして、美作の横を通り過ぎて行くのだ。
しばし呆然としたあと、つくしの後ろに美作も並んだ。それでも前を向いたまま、後ろを見ない。何やら、ブツブツと呟いているのだけが聞こえる。よくよく耳を澄まして聞いてみれば
「うーん、Aランチ?Cランチ?いやいや本日のお勧めパスタなんていうのもありだよね~ あっ!スペシャルのデザート、夢パフェじゃん。でもね、お給料前、いくらお得だからって、2200円のランチは贅沢よね。夢パフェ……うーん」
心の声が駄々もれの様子が可笑しくて、美作の目が、耳が、つくしに釘付けになる。
つくしは名残り惜しそうに、スペシャルのサンプルを見たあと、本日のパスタを頼んだ。
そして、美作は夢パフェなど要らないのに、気がつけば、スペシャルランチを頼んでいた。
何だか随分と豪勢なトレーを持って、美作はつくしのあとを追った。
「あっ、牧ちゃん、ここ、ここ」
つくしが呼ばれて腰掛けたのは、美作が新入社員の時に世話になった林田課長がいる席だった。願ったり、叶ったりとはこんなことを言うのか? 。美作は、『これでちゃんとした名前と部署がわかるぞ』と内心ニンマリとしながら、林田に声を掛ける。
「林田課長」
「おっ、珍しい、美作君じゃない」
「ご無沙汰してます。席、ご一緒しても宜しいですか?」
爽やかな笑顔で林田に訊ね、一礼をしながら、ごくごく自然につくしの隣に腰掛けた。
「牧ちゃん、美作君は初めてだっけ?」
「あっ、はい」
コクンとつくしが頷けば、林田が
「営業二課チーフの美作あきら君」
美作を紹介したあと
「で、この子が牧野つくし」
隣にいたつくしを紹介した。
どこの部署だと、美作は林田の言葉の続きを待ったが……言葉の先は続かずに、別の話題に移っていった。つくしの話題は驚くほどに豊富で面白かった。
食事を終えたら退席するはずだったのに、気がつけばカフェテリアスペースに移動して会話に興じていた。
時折、チラッチラッと、こちらを見る熱い視線を感じる。普段なら何も感じない熱い視線をやけに嬉しく感じながら
『そうだよな。そうだよな。美の化身……美作あきらだもんな』
なんてことを連々と考え、気をよくした次の瞬間……
「あの……美作さん、パフェ溶けちゃいますよ」
「あっ、ぁあ……」
心底ガックリしながら、スプーンで掬おうとすれば……つくしの視線は、夢パフェに釘付けになっている。
「牧野さん、食べる?」
美作がそう聞けば、つくしは、黒曜石のような瞳をキラキラと輝かせながらも首を振り
「えっ、でも、悪いです」
「俺、ランチ目当てだから、よければ食べてよ」
「そんな、あっ、でも、はい。いただきます」
蕩けそうな顔をして
「夢シリーズって、どのスイーツも美味しいんですよね」
熱く語りだした。
「あぁ、美味しい。って、美作さん……ありがとうございます」
「あっ、いやっ。牧野さん、スィーツ好き?」
美作の問いに、ブンブンと首を縦に振りながら
「週末の楽しみは、甘いもの巡りツアーです」
それはそれは幸せそうに言うものだから
「へぇ、じゃぁ、今度一緒に行こうよ?」
同じ会社の人間には手を出すなと親族に言われていたのと、自分自身も面倒なことになると嫌なので、どんだけ容姿がど真ん中ストライクの子でもデートには誘わないと決めていたはずなのに、美作、己で決めた禁を破ってつくしの事を誘ってた。なのに……いいや、案の定とでも言うべきか誘われた当の本人は、
「あははっ、いつか機会があれば、ぜひ」
絶対に一緒に行かないってわかる口ぶりなのだ。
美作の心に、ボッと火がついた。
「早速だけど今週末なんてどう?土曜でも日曜でも牧野さんの都合に合わせるよ。あっ、今週末がダメなら、来週でもいいけど」
つくしがタジタジになる勢いで矢継ぎ早にモーションをかける美作。
林田がクスクス笑いながら
「牧ちゃん、良いこと教えてあげようか?」
つくしが小首を傾げながら林田を見る。
林田は、つくしの耳元で
「美作君と仲良くすると、夢スィーツの新作試食が出来るよ」
「えっ」
キラキラ光る大きな瞳が、溢れ落ちそうな程に大きく見開かれ、美作を真っ直ぐに見る。
ビックウェーブ到来!とばかりに美作が甘言を弄して、攻めていく。
「あぁ、なんなら、夢スィーツのローズケーキなんていうのも用意するよ」
「えっ…ローズケーキって、あの幻のローズケーキですか?」
売るほどあるよ。と、美作の顔に笑みが浮かぶ。
「うん」
つくしの黒目が、グルグル回転して……
「是非、ご一緒願います」
思惑は違えど、美作もつくしもウキウキワクワクで週末を迎えた。
将棋会館に行かない休日、つくしを美作の実家に連れて行った。
なんで……いきなり実家だって?
あのあと、林田に
「牧ちゃん、美男にはちっとも興味ないし靡かない。あっ、勿論、お金や地位にもね。逆効果になるときもあるから注意してね。で、もって、好きだモードやらなんやら出すと逃げるからね」
なんて、アドバイスをもらったのだ。考えて、考えて……裏木戸から、実家にある離れに連れ帰ったのだ。
離れは、もともと美作の母の夢子の趣味の家だ。お伽噺に出てくるような小さな家をイメージして建てられていて、本邸と比べればこじんまりとした家になっている。
離れには、夢スイーツ創始者の美作家の母と、夢の国に住んでるような可愛い双子の妹と……そのあとを追って将棋好きな美作の父が計算通り待ち構えていた。
つくしは見事なほどに、四人に食いついて、ついでに家族中からくいつかれて、週末は、美作家で過ごすことが定番化したのだ。
周りから攻めこんで、一年かけて、ようやく恋人同士になった。
「会わせたい人がいるんだけど?」
この一年、美作の紹介で色んな人と顔合わせしたので、今日もその延長だと、つくしはニコニコと車に乗り込んだ。
で、いま……
「つくしちゃん、そこのダッシュボード開けてみて」
美作に言われ、開けてみれば
「こ、こ、これ! わ、わ、わたしの」
あの日なくした筈のヒールの踵が入っている。
「この、ヒールの踵の持ち主と、添い遂げたいと願ってます。yesならぜひ受け取ってください」
と、ヒールの踵を指差した。
なんで?とか、どうして?とかと一緒にかなり恥ずかしい格好で落ちたのを一気に思い出して、勢いで手にしてしまったヒールの踵には、キラリと輝くダイヤがかけられていた。
「ありがとう。大切にする」
ハシバミ色の瞳で微笑まられば、今更、違うんですとも言えず、追い込み漁法のように
「ウェディングケーキは、母さんが全部食べれるの作るって
張り切りそうだよな」
なんて言われれば、『それ、メチャ食べたい』なんて思ってしまって
「よ、よ、よろしくお願いします」
なんて、つくしは頭を下げていた。
ニコニコしながら運転する美作を見れば、なんだか自分の選択が、物凄い正しい気になっていて、美作同様ウキウキと浮かれまくって、着いた先の表札にデカデカと菱田と書かれていたのを見過ごした。
いや、つくしは、あまりにも立派だったので……ここは、老舗料亭か何かだと思っていたのだ。まぁ、それを狙って、到着の前に美作は電話をいれ、門を開けて貰っていたのだが。
着物を着た上品な女中さんに案内されて奥の部屋に通される。
「旦那様、あきら様がお見えでございます」
恭しく女中が中の人物に声を掛けている。
「入りなさい」
部屋の中から重々しい声がする。
ゴクンッ
美作の身体が再び緊張で包まれる。
気難しい爺様達がつくしを気に入るかは微妙な所だと思っているのだ……反対されれば、されたのことだと重い腰を持ち上げ会いに来た。何より、つくしの了承を得たいま、恐れることはなにもないと思っている。
ただ……ひとつ、つくしは、美作が美作商事の御曹司で、菱田の孫息子だとは知らない。
ばれた瞬間、渡した指輪を返されでもしたらと突如不安になった。それに、反対されてもと言ったが、それは自分自身の気持ちであって、つくしの気持ちではないと……はたと思い立ったのだ。
美作はつくしの手を握り、今すぐにでも踵を返して帰りたくなった。
無情にも、襖が開かれる。
「おぉっ、待っとったぞ」
相好を崩した、四人の面々が美作とつくしを出迎えた。
「会長……まりさん」
菱田夫妻が先ずはニッコリ微笑み。
「ミマさんと、春さんも……えっ?」
驚くつくしをよそに、美作夫妻がニッコリと微笑んだ。
呆気に取られている美作を他所に、四人はニコニコと嬉しそうだ。
「つくしちゃん、先週ぶりじゃの」
ミマさんと呼ばれた美作の祖父がニッコリと笑う。
なんのことはない。…… ミマさんは、つくしの将棋仲間で、春さんとまりさんは、つくしのスイーツ仲間で……
菱田会長は、つくしの直属の上司だったのだ。
なにはともあれ、ピンヒールの踵を、階段に置き忘れたつくしは、シンデレラのように……
末永く、末永く……幸せに暮らしましたとっさ。
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