無花果は香る
形の良い彼の唇から微かに小さな声が漏れた。
10年ぶりの言葉が吸血鬼だなんてと、一瞬、クラリと倒れそうになりながら
「花沢専務、せめてヴァムピーラとお呼び頂けませんか?」
平静を装い女性形容詞を返した。彼の唇が
「失礼」
と謝罪を述べている。あたしの中の凝り固まった緊張が一気に溶けていく。同時に溢れ出す彼への思い。
あぁ、あたしは、やっぱり彼の全てを
好き 好き 好き 好き 好き 好き 好き 好き 好き 好き 好き 好き好き 好き 好き 好き 好き 好き……で堪らない。
あの日、彼を見つけた瞬間から、あたしは彼の全てに魅了され続けている。
なぜ?
そんなことは分からない。生きるために、魚が水を、植物が太陽を求めるように、あたしは彼を求めてしまう。
呆れるほどに執着して、あたしは彼のもとに再びやって来た。彼に愛される事がなくても、彼の側に居たい。彼の目が見る景色を、彼の耳が聴く音を共に感じたいと願ってしまった。
痛ましいほどに魅せられて、笑ってしまうほどに愛してる。
彼ではなく、狂おしいまでにあたしを愛してくれる
あたしは、彼しか愛せないと。
「……へぇ、牧野さんって、随分と優秀なんだね」
左の唇の端っこを人差し指でクルクルとを回しながら、身上書を見て呟いている。
こんな癖があるんだと、思わず見入ってしまう。
一緒に居て気がついたのは、唇の端っこクルクル回すのもそうだが、彼には幾つかの癖があること。疲れてくると、普段は上げている前髪を一筋下ろして、枝毛探しをする。そんな時は、コーヒーではなくて甘めのカフェオレを出す。お砂糖は、和三盆の優しい味がお好みのようだ。会議中に、親指の爪を中指で内側に弾く時は、会議の内容をどうでもいいと思っている時で、逆に、中指の爪を親指で外側に向けて弾く時は、かなり興味をもった時だ。時に、彼の仕草は、彼以上に多弁だったりするから面白い。
知れば知るほど、堪らなく好きになる。ビー玉のように美しく輝く瞳が好き、しなやかな指が好き、低く澄んだ声が好き、フレグランスと混じった爽やかで甘い彼の匂いが好き、サラサラとした髪の毛が好き、二つあるつむじが好き……好きを数えたら、いったい幾つになるんだろう。彼の吐く吐息でさえ愛おしくて堪らないあたしは、かなりイカれているのだろう。
「……じゃなきゃ、……来ないか」
いつの間にか声が漏れていたようで
「うんっ?なにが来ないの?」
彼のビー玉のような瞳があたしを見る。
「あっ、いえっ、昨日食べた鯖サンドが美味しかったので、近くにないかなって……」
「鯖サンド?」
「あっ、はい。召し上がられたとことあります?」
「あっ、いや、ないけど」
「美味しいですよ。花沢専務も機会があればぜひ」
彼が爪を弾いて
「じゃあさ、これから食べに行くってどう?」
ニッコリと笑う。
彼の指は、どの指を弾いたのだろう?
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