無花果の花は蜜を滴らす 03
日本にいないはずの千暁さんの名
がコール音とともに現われたとき、嫌な予感がして、電話に出るのが怖かった。
「万里にバレたかもしれない」
なのに、千暁さんから、そう告げられた瞬間、ここ数日感じてた違和感の正体に納得していた。
「うん。わかった」
「つくし……ごめんな」
情けなさそうな声音を出しながら、あたしに謝る。
千暁さんは悪くない。今まで必死で櫻之宮からあたしを守って来てくれたのだから。
心の奥底で覚悟していた筈だ。いつか全てが露見する日が来るだろうと。
いや、そうでなければ、千暁さんを自由にしてあげることが出来ないと。
沢山の優しさを無条件で注いでくれた千暁さんに、あたしから送れる唯一の餞だと思っていた。覚悟していた。
なのに
学校のこと、友達のこと、将来のこと……色々なことがあたしの頭の中で渦を巻いた。
今まで、千暁さんが壁になって、守ってくれたあたしの日常。
これからどうなるんだろうか?
一気に全てを捨てなくてはいけないようなことは、ないだろう。
ただ、千暁さんの代わりに万里くんとの婚約話が出てくるだけの話だ。
あの家を出てから二年半以上自由なときを過ごせた。もう充分だと思わなきゃいけない。
それに、もしかしたら……あたしが素直に万里くんのものになれば、万里くんのあたしへの執着は消えるかもしれない。
未来に思いを巡らせた瞬間、ブルリとした冷たいものがあたしの背筋をかけ上った。
「つくし、つくし……オイッ、大丈夫か? 大丈夫だから。安心しろな」
あたしを呼ぶ千暁さんの声が聞こえるのに、返事をしなくちゃいけないのに、恐怖に支配された体はガタガタと震えている。
「……会えなく……会えなく…なっちゃう」
一番の恐怖があたしを襲う。彼に愛されることも、優しくされることも何も望まない。
でも
でも
でも、でも、でも
彼に会えなくなることは
いや、
いや、
いやだ。
自然と嗚咽が溢れていた。千暁さんは、あたしが落ち着くまで待ってから
「なるべく早く帰れるようにするから。まだ何も知らない振りをしててくれな。櫻之宮から連絡があってものらりくらりと交わしてていいから。お前に不自由な思いはさせないから」
そう言ってから電話を切った。
身体を小さく小さく丸めて、部屋の隅で毛布を被りうずくまった。
あたしは、偽善だ。あんなに覚悟を決めていたのに、千暁さんのなんとかするに縋っている。
まんじりともせずに朝を迎えた。重い身体を引きずりながら、身支度を整えるために部屋を出た。
キッチンから、小気味良い生活のリズム音とママの声が聞こえてくる。
「あー、もうパパ、洗面台使ったら、ちゃんと拭いてよ。あっ、進、講習の申込書、今日まででしょ」
いつもと変わらぬ、いつもと同じ朝。皮肉なことに、幸せでも辛くても、誰の上にも平等に朝は、やってきて一日が始まるんだと感じた。
目の前の扉がガチャリと開いて
「あっ、姉ちゃん、おはよう。あれっ? 寝不足? くまできてるよ。あんま根つめないようにね」
あたしより、すっかり背が伸びた進が屈託なくニッコリと笑う。
「おはよう。ありがとう。今日は早く寝る」
「うん。その方が、勉強の効率も良いみたいだよ」
「進に教えられるとはだね」
「ハハッ、あっ、俺、急ぐんだった。父ちゃん、先、出るよ」
「パパも、出るよ
おっ、つくし、おはよう」
「おはよう。行ってらっしゃい」
バタバタとしながら家を出ていく二人を見送った。
「ママ、おはよう。今日は早番?」
慌ただしく動くママに声をかければ、三上さんが風邪を引いたから代わりに早く行くことになったと言葉を返しながら
「つくし、あんた、戸締りよろしくね。朝、しっかり食べるのよ。じゃ、行ってくるから」
威勢よく出ていった。
「フゥッー」
長い長い息を吐き、椅子に座った。テーブルの上に置かれたおむすびを一つ食べた。
悲しいときに食べるおむすびは、おむすびなのに、なぜか悲しみの味がした。
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