baroque 88
雛子と二人で会うようになって何度目になるのだろうか?
コロコロと楽しそうによく笑う雛子との時間は、出会った頃のつくしと居るようで総二郎にとってかけがえのないものになりつつある。
「総二郎さん、見て見て」
雛子の瞳が総二郎を見つめる。一心に見つめる雛子が可愛くて
「雛ちゃん、総って言ってみてよ」
そう口にしていた。
「そ、総…さ…ん」
「さんじゃなくて」
「総くん?」
「ぷっ なんで疑問形よ」
「だ、だって」
恋人同士のようにじゃれ合いながら歩く。
「…あっ」
段差に躓いた雛子の身体が宙を舞った瞬間、総二郎が雛子を胸に抱き寄せた。
「大丈夫か?」
「あっ、はい。ありがとう…ございます」
黒髪が揺れ雛子の香りが総二郎の鼻腔を刺激した。前々回会った時に総二郎は、つくしに付けさせているのと同じ香水を雛子にプレゼントしていた。
前回会った時に付けていなかったので、てっきり気に入らなかったのだと思っていた。
「香水……付けてくれたんだ」
「あっ、はい」
雛子は、ほんの少し俯いて微笑んだ。長い髪がサラサラと揺れる。総二郎は目を瞑り、その香りを堪能するかのように鼻を蠢かした。
美術館を一通り見て回った二人は食事を取るために外に出た。気持ちよく晴れた日だった。青空によく映えるレモンイエローのワンピースを着た雛子は殊更に美しく、総二郎の美しさと相まって人目をひく。
「雛ちゃん 何食いたい?」
総二郎の問いに雛子が答えようとした、その時……
沢山の視線の中から、ついっと前に出た女性が声を掛けてくる。
「雛ちゃんっ」
雛子と総二郎が、ゆっくりと顔を向ければ……ニッコリと笑う女性と目が合った。
「おば様」
「雛ちゃんも、今日の展覧会見に来ていたのね。後ろ姿が似ていたから、思わず声を掛けちゃったわ
……失礼ですけど……そちらの方は、もしかして、西門の坊ちゃんじゃなくって?」
総二郎の事を坊ちゃんと呼ぶ女は、人懐こい笑みを浮かべながら総二郎に視線を向け
「あらっ 嫌だ。私ったら、自分の名も名乗らずにごめんなさいね。篠田と申しますのよ 」
篠田夫人は、美しい所作でゆるりと頭を下げる。
「お初にお目にかかります。西門総二郎と申します」
「よく存じておりますわ。将来は、人間国宝間違いない腕前でいらっしゃるとか。頼もしい事ですわ
色々お話を伺いたい所だけど、お邪魔しては申し訳ないわよね」
可愛らしく首を傾げる篠田夫人に、総二郎は柔らかく微笑みながら
「これから食事に行くところですので、宜しければ是非ご一緒に如何ですか?」
そう誘った。
「宜しいのかしら?
西門流の若様と食事なんて、長生きはしてみるものね」
篠田夫人は雛子の母方の祖父の一番下の妹で、雛子の母とは一時期一緒に暮らしていたこともあるらしく、雛子の母親と雛子を殊の外に可愛がっているようだった。
「子供も孫も男の子しかいないから余計なのだけれど、雛ちゃんって屈託が無くて明るいでしょ?
だからかしら、主人も息子達も本当にあの子の事は、可愛がっているのよ」
目を細め雛子を見る様は、心の底から雛子を愛おしく思っているのがよく分かる表情だった。
総二郎は気づかない。篠田夫人と会った事が決して偶然などではない事を。雛子の母方の実家は京都にある事も。
そして、何よりも……雛子の総二郎への思いが憧れなどではなく、本気の恋心な事にも。
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