紅蓮 110 つかつく
司が頷いた瞬間……了承を得たとばかりに女は
「一途な思いは、善なのでございましょうか? 悪なのでございましょうか? ……道明寺さんは、どう思われますか?」
そう問うた。
「……一途な思い?」
「えぇ。一途な思いでございます」
「それは、俺の彼女への思いに対してですか?」
「それも含めて、全てのことに対してでございます」
しばしの沈黙の後
「……indifferentia
貴女は、いや、永瀬さんはどう思われますか?」
司が自分の名を呼んだことに驚いたのか、それとも司の答えに驚いたのか、女は、いや、永瀬は、
「indifferentia……善悪無記だと道明寺さんは仰るのですね」
そう口にして、真っ直ぐに司の目を見つめ、眦に皺を寄せた後
「……あの日も、そう、あの日も、こんな風に穏やかな天気で、波の音がよく聞こえたわ……」
永瀬の目は司を見ているはずなのに、違う誰かを見つめるかのように話し出した。
「美結様は、私にとって幸せの象徴でしたの。
美結様は、いつでも幸せそうにキラキラと輝いていらっしゃいましたのよ。コロコロとよくお笑いになられましてね。それにつられるように周りの者全てが笑う。そんなお方でしたのよ。私には、それが誇らしく誇らしくてたまりませんでしたわ」
見つめる先に〝美結〟が居るように目を細める。
「美結様のずっとお側に居る。それが役目だと思っておりましたしわ。
ですが、18になる年に、ご当主様に言われましたの。使用人としてではなく、将来、あの子が宗谷を受け継ぐ時のブレインとしてあの子の側に居て力になって欲しいと。
そのために少しの間離れて学ぶ事が必要だと命を出されれば、断ることが出来ませんでしたわ。
いいえ、小さな頃のように、美結様のお力になれると思うと……胸が高鳴りましたの。
……決して、離れるべきでは無かったのですけどね……」
緋色に染まりそうな程に、永瀬は唇を噛む。
「一時帰国が許されたのは、美結様の結婚式の時ですわ。突然のご結婚に随分と驚きましたわ。それと共に、ご結婚の事を教えて下さらなかったことを僻んでしまいましたの。美結様にとって、宗谷家にとって、私は取るに足らない者だと思い知らされたようで……
あの時……第一に考えなければいけなかったのは、美結様の事でしたのに、愚かな私は〝己の気持ち〟を優先させてしまいましたの」
傷ついた永瀬は、式が終わると共に美結を残し留学先に戻った。永瀬が次に日本に戻ってきたのは、美結の乳母であり、侍女長を務める実母に呼ばれてだと言う。
「美結様の体調が一向に良くなられないのと、お腹の子が双子だと言う二つの理由で呼び戻されましたの。
美結様は、安定期に入られたと言うのに悪阻が治らずに、水分をお取りになられても嘔吐する状態でいらっしゃいました。体調が優れないのにも関わらず、私の顔を見ると嬉しそうに微笑んで下さいましたわ。
続く悪阻の所為で、痩せ細り、体力も随分と落ちてしまわれて……それでも本邸を離れ、別邸に移ってからは、悪阻も少し良くなられて、お加減のいい日には、この辺りを散歩したものですわ。
美結様の精神も、お身体同様、良い日もあれば、そうでない日もあると言う状態でございました。
何が原因なのか、あの頃の私には知る由も御座いませんでしたが、離縁の話しが浮上していたので、それが原因だと思っておりました。現に、あの男は一度たりとも別邸には参りませんでしたしね。
来たとしても、追い返していたでしょうけどね。
そんな風に、美結様のお心も、状況も何も見えてなかった。いいえ、あの時同様、見ようとしていなかった」
そこで話を一旦切った永瀬は、小さな息を一つ吐いた後、また話し始める。
「宗谷家に仕える者としては至極当たり前な感情なのでございますが、私達にとって、ご当主様は絶対の存在でございます。
産まれる前に父を亡くした私にとっては、ご当主様はご当主様以上の存在でしたの。
物心つく頃には、実の父が鬼籍にあることよりも、母の優先順位が実の子の私では無く美結様にある事よりも、美結様の乳兄弟となれた己の立場を誇らしく感じ、幸運に感謝したものですわ。
過分な程に、ご当主様も奥方様も私のことを気に掛けて下さいましたしね。
ご当主様は、奥方様をそれはそれは一途に愛しておいででございました。使用人の私達がその愛情をひしひしとかんじるほどに。
沢山の愛情の中で、美結様はいつでもお幸せそうに笑っていらっしゃった。
そう思っておりました。
でも……奥方様は、幸せそうに笑う美結様を通して違う誰かをご覧になられていらっしゃった。
ご当主様も、奥方様の幸せそうな笑顔をご覧になられたいが為だけに、美結様を愛しんでいらっしゃった。
周りの者とて、宗谷家の繁栄と栄華の象徴である美しく可憐な姫君としての美結様を愛していた。
誰一人として、美結様ご自身を見ていなかったのでございます。
美結様は、聡いお方でいらっしゃいましたから、己が全てを受け入れ、役割りを演じていらっしゃったのでしょうね。
私をはじめ誰か一人でも、美結様ご自身を見て居たならば、美結様の身に起きたご不幸な出来事に目を逸らさずに対応出来た筈です。
でも……違えてしまった」
少し風が出て来たのだろうか、波の音に混じり、ヒュウヒュウと鳴く音がする。
「一途な思いは、善なのでございましょうか? 悪なのでございましょうか? ……道明寺さんは、どう思われますか?」
そう問うた。
「……一途な思い?」
「えぇ。一途な思いでございます」
「それは、俺の彼女への思いに対してですか?」
「それも含めて、全てのことに対してでございます」
しばしの沈黙の後
「……indifferentia
貴女は、いや、永瀬さんはどう思われますか?」
司が自分の名を呼んだことに驚いたのか、それとも司の答えに驚いたのか、女は、いや、永瀬は、
「indifferentia……善悪無記だと道明寺さんは仰るのですね」
そう口にして、真っ直ぐに司の目を見つめ、眦に皺を寄せた後
「……あの日も、そう、あの日も、こんな風に穏やかな天気で、波の音がよく聞こえたわ……」
永瀬の目は司を見ているはずなのに、違う誰かを見つめるかのように話し出した。
「美結様は、私にとって幸せの象徴でしたの。
美結様は、いつでも幸せそうにキラキラと輝いていらっしゃいましたのよ。コロコロとよくお笑いになられましてね。それにつられるように周りの者全てが笑う。そんなお方でしたのよ。私には、それが誇らしく誇らしくてたまりませんでしたわ」
見つめる先に〝美結〟が居るように目を細める。
「美結様のずっとお側に居る。それが役目だと思っておりましたしわ。
ですが、18になる年に、ご当主様に言われましたの。使用人としてではなく、将来、あの子が宗谷を受け継ぐ時のブレインとしてあの子の側に居て力になって欲しいと。
そのために少しの間離れて学ぶ事が必要だと命を出されれば、断ることが出来ませんでしたわ。
いいえ、小さな頃のように、美結様のお力になれると思うと……胸が高鳴りましたの。
……決して、離れるべきでは無かったのですけどね……」
緋色に染まりそうな程に、永瀬は唇を噛む。
「一時帰国が許されたのは、美結様の結婚式の時ですわ。突然のご結婚に随分と驚きましたわ。それと共に、ご結婚の事を教えて下さらなかったことを僻んでしまいましたの。美結様にとって、宗谷家にとって、私は取るに足らない者だと思い知らされたようで……
あの時……第一に考えなければいけなかったのは、美結様の事でしたのに、愚かな私は〝己の気持ち〟を優先させてしまいましたの」
傷ついた永瀬は、式が終わると共に美結を残し留学先に戻った。永瀬が次に日本に戻ってきたのは、美結の乳母であり、侍女長を務める実母に呼ばれてだと言う。
「美結様の体調が一向に良くなられないのと、お腹の子が双子だと言う二つの理由で呼び戻されましたの。
美結様は、安定期に入られたと言うのに悪阻が治らずに、水分をお取りになられても嘔吐する状態でいらっしゃいました。体調が優れないのにも関わらず、私の顔を見ると嬉しそうに微笑んで下さいましたわ。
続く悪阻の所為で、痩せ細り、体力も随分と落ちてしまわれて……それでも本邸を離れ、別邸に移ってからは、悪阻も少し良くなられて、お加減のいい日には、この辺りを散歩したものですわ。
美結様の精神も、お身体同様、良い日もあれば、そうでない日もあると言う状態でございました。
何が原因なのか、あの頃の私には知る由も御座いませんでしたが、離縁の話しが浮上していたので、それが原因だと思っておりました。現に、あの男は一度たりとも別邸には参りませんでしたしね。
来たとしても、追い返していたでしょうけどね。
そんな風に、美結様のお心も、状況も何も見えてなかった。いいえ、あの時同様、見ようとしていなかった」
そこで話を一旦切った永瀬は、小さな息を一つ吐いた後、また話し始める。
「宗谷家に仕える者としては至極当たり前な感情なのでございますが、私達にとって、ご当主様は絶対の存在でございます。
産まれる前に父を亡くした私にとっては、ご当主様はご当主様以上の存在でしたの。
物心つく頃には、実の父が鬼籍にあることよりも、母の優先順位が実の子の私では無く美結様にある事よりも、美結様の乳兄弟となれた己の立場を誇らしく感じ、幸運に感謝したものですわ。
過分な程に、ご当主様も奥方様も私のことを気に掛けて下さいましたしね。
ご当主様は、奥方様をそれはそれは一途に愛しておいででございました。使用人の私達がその愛情をひしひしとかんじるほどに。
沢山の愛情の中で、美結様はいつでもお幸せそうに笑っていらっしゃった。
そう思っておりました。
でも……奥方様は、幸せそうに笑う美結様を通して違う誰かをご覧になられていらっしゃった。
ご当主様も、奥方様の幸せそうな笑顔をご覧になられたいが為だけに、美結様を愛しんでいらっしゃった。
周りの者とて、宗谷家の繁栄と栄華の象徴である美しく可憐な姫君としての美結様を愛していた。
誰一人として、美結様ご自身を見ていなかったのでございます。
美結様は、聡いお方でいらっしゃいましたから、己が全てを受け入れ、役割りを演じていらっしゃったのでしょうね。
私をはじめ誰か一人でも、美結様ご自身を見て居たならば、美結様の身に起きたご不幸な出来事に目を逸らさずに対応出来た筈です。
でも……違えてしまった」
少し風が出て来たのだろうか、波の音に混じり、ヒュウヒュウと鳴く音がする。
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