baroque 94
嫋やかな空気を纏い、時政夫人がお辞儀する。
時政夫人の人となりを知らなければ、夫人を表す時に使われる、女傑・豪胆・革新的と言う言葉がこれ程も似合わない人はいないだろうと薫は感じる。
抜ける様な肌の白さに小さな体躯。緩やかに微笑みを浮かべるさまは、まるで京人形のようだ。
いいや、夫人の人となりを熟知していたとしても、彼女の姿形は彼女の内面を表す言葉とは似合わない。
薫と夫人の付き合いは、つくしが白泉の生徒会長に推挙された折に薫が会いに行ってからになる。そのままのつくしを認めてくれたのが嬉しくて、気分が高揚していた薫は、つくしが如何に素晴らしいか周りを如何に幸せにするを熱く語った。帰りがけ夫人に
『お血筋なのかしら? 薫様のお父様の伊織様もお熱い方でいらっしゃいましたのよ』
ニコリと微笑まれ、面映い思いをした。
お互いに気があったのもあって折に触れ、時政夫人と薫は食事を共にする。時折、時政夫人の夫洋平氏が加わることもある。
そんな時は決まって、時政夫妻に『たまには、つくしさんもご一緒に』と誘いを受けるのだがそこにつくしが加わることはなかった。
最初は、つくしの件で態々帰国して時政夫人に会いに行ったと言うのが気恥ずかしくて誘うことが出来なかった。
その後は、あれほど喜んでいた筈の白泉の会長の話題がのぼると、つくしの表情に陰りが見える気がして誘えなくなった。
陰りの原因が杞憂ならよかった。杞憂などでないとハッキリとしたのは、つくしが東京に行きたいと言い出した時だ。
だから薫は、応援するふりをして優しい笑顔で、幾重にも幾重にも絡みつくような枷を与えた。
どこかに行ってしまわないように……いいや、逃げ出せないように
「薫様、どうされました?」
時政夫人は自分の顔を見つめたまま止まっている薫に声をかけた
「ぁっ……いや……」
薫にしては珍しく言葉をつまらせた。
「あらっ、嫌やわぁ、言葉も出ない程にうちに見惚れはるなんて。うちん人に自慢せえへんと」
時政夫人が戯けながら口にする。薫は、夫人の心遣いに感謝しながら
「まだ命は惜しいさかい、そら堪忍しておくれやす」
同じように戯けて言葉を返す。
「あらっ、それって主人が私にベタ惚れに見えるってことかしら?」
「見えるではなく、どこをどう見ても洋平さんは、翠子さんにベタ惚れだと思いますよ」
薫が肯定すれば
「あぁ 嬉しい
洋平さんは、小さな頃から私の憧れの王子様でしたのよ」
言葉と同時に、時政夫人は心の底から嬉しそうな笑顔という名の花を一つ咲かせた。
「憧れの王子……様ですか……では、翠子さんは憧れの王子様と小さな頃から愛を育んで結婚されたんですね」
そんな言葉を返しながら、時政夫妻が羨ましいと心の底から思っていた。
「愛を育んで? うふふっ 小さな時から愛を育んだのは私一人ですのよ。洋平さんは、姉の婚約者でしたもの」
時政夫人は一旦言葉を切ると、何かに思いを巡らせるかのように目を閉じた。二人の間にいつもとは違う静寂が訪れる。
時政夫人が再び目を開けた時、薫はその表情の変化に驚いた。まるで幼い少女のように、どこか頼りなげな表情をしていたからだ。
時政夫人は、ふぅーっと小さな息を一つ吐いてから
「うちは、三人兄妹の末っ子として生まれましたんよ。四つ上の兄はとても優秀な人どしたし、二つ上の姉は京一番の美人と謳われた母によう似て、華やかで美しゅう人どした。うちはこれと言って取り柄のないそんな子どした。そんでも兄と姉が大好きでいつもくっついて回ってましたんよ。
大人の策略もおうたんでしょうね。兄と同い年の洋平さんは、こまい頃から仲良うしてはって、洋平さんは、よお、家に来てはりましたんよ。洋平さんは、今と同じ穏やかな優しゅう人で、ごまめのうちを邪見にすることなく、相手にしてくれはりました。洋平さんは、時折「翠子ちゃん。はい。ご褒美」そんなん言うて、美しゅう色のリボンや、行ったことのない国の絵葉書、可愛らしぃ小物や美味しゅうお菓子なんかをうちにくれはりましたんえ。
洋平さんと姉の婚約が身内の間で整ったんは、うちが14の頃どした。決定の決め手は姉が次年度の白泉の役員の一人に選ばれはったから。
薫さんもご存じの通り、白泉の役員に選ばれるん言うんは、本人だけではなく、家門にとっても名誉なことなんどす。時政にとって根津の血ぃひいた娘なら、姉でもうちでも___いいえ、家門に連なるものなら誰でも良かった。なら、より優秀な娘を同盟の証に嫁がせようと根津の祖父が決めはったんやと。ご機嫌よう酔いはった父が言うてはりました。
心臓をギュッと心臓を鷲掴みにされた気がしましたんえ。そこで気ぃ付きましたんよ。うちは洋平さんが好きなんやと。泣いたんは、その晩だけ。次の日から、うちは死に物狂いで今まで【どうせうちなんて】と端から諦めてたもんを手にしようと決意しましたんえ。半年過ぎたあたりで、真ん中より上いったことのう成績が5番以内に入るよぉになりましたんえ。中等部の最後の年には、級長さんに選ばれましたんよ。うちなそれまで人前に出るなんて考えられまへんどしたんえ。でもなぁこん時から、有難く受けることにしましたんえ。高等部に上がる頃には、テストは一番以外とらへんようになってましたんよ。習い事も気張りましたんよ。
浅はかな考えだったんでしょうね。白泉の会長に選ばれれば、会長にはなれなかった姉じゃなくて、うちが洋平さんの婚約者に変更されるって。婚約の発表は、姉が二十歳になってからって決まってましたんで____まだ間に合う。まだうちにもチャンスがある。って。だから、次年度の会長に決まった時は、嬉しゅうて嬉しゅうて。待っていた根津の祖父からの呼び出しは、一月後のことやったんよ。前の日、うちは緊張でよぉ眠れはしまへんどした。
浮き立つ心を隠し、両親と共に祖父母の前に座りました。大層ご機嫌な祖父がパンパンと手を二つ叩くと、執事がやって来て、両親の前に写真と釣り書きを置きましたんよ。
「喜べ、翠子の縁談だ。嵯峨様の所の孫息子だ。ほんに翠子はようやった。儂は鼻が高いぞ」
祖父の言葉に、うちの世界はガラガラと音が崩れていきましたんえ。始終にこやかな祖父母と両親と共に食べた食事は、砂を食べているようどした。
うちの相手は、関東にお嫁に行かはれた嵯峨家の姫様を母に持ち、元華族で東京で大きな会社をいくつもされてる方を父に持つ、氏も育ちも非の打ちどころがないお方どした。世間ではこれを良縁と言うのでしょうね。でも、うちにとっては、最悪なご縁どした。なぜって? 祖父が持ち込んだ____うちには絶対に断れないご縁でしたから。
嵯峨様のご邸宅でお会いしてすぐに婚約という流れになりましたんよ。お相手の隆哉様は、誰から見ても素敵な方でしたわ。隆哉様は話題が豊富で華やかで洗練されたお方でしたから、うちと隆哉様が会う日は他の家族も行動を共にしたがりましたんよ。
そろそろ姉と洋平さんの婚約パーティーの招待状を皆さんの所に送る頃だったかしら、姉が大事な繋がりがある時政との縁談を反故して家を出はりましたんよ。それだけでもびっくりでしたのに、一緒に出奔したお相手と言うのが、うちの婚約者の隆哉様でしたんよ。 姉の残した文には、真実の愛とやらを見つけはられたと書かれておりましたわ。その文を目にした瞬間、可笑しゅうて可笑しゅうて込み上がる笑いを治めるのに苦労しましたわ。それよりもっと可笑しかったんわ、父に『お前が悪い』と責められた事ですわ」
「翠子さんが悪い……ですか?」
「えぇ うちがしっかりと隆哉様の気持ちを繋ぎ留めておかなかったのが悪い、お前は役立たずだと罵られましたの。隆哉様が来る度に、姉が同席するのを許したのは父と母なのにね。
薫様、ご存知でいらっしゃる? 人って余りにも驚くと……感情が真っ白になって、言葉が返せなくなるんですのよ。
黙り込んだうちが気に食わなかった父がうちの頬を叩いたのと、執事に止められながら洋平さんが部屋の扉を開けたのは同時でしたわ。
用意周到と言うのかしら? 姉は御丁寧な事に、洋平さんにも出奔する旨の文を出していたんですのよ。
うちが父に打たれている姿を見た洋平さんは酷く驚いたお顔をしてから、うちの手を取ってくださいましたんよ」
時政夫人は、その頃を思い出すかのように微笑を浮かべた。
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